雑感

船頭多くして船山に登る

  国語の詩においては国語的見地からの解き方ルールなる物があります。例えば一般論としてあまり良くないイメージの物事に対して敢えて逆のいいイメージで描くとき、その時はその実物と描き方のギャップに魅力、面白さがあると捉えます。

 しかし、現実問題において親と子の勉強に対する姿勢のギャップは最悪です(泣)。先日、このようなことがありました。

(親)「この前、家庭教師の先生と一緒に見直したよね。」

(生徒)「何のこと?え?やったっけ?」

(親)「やったでしょっ(怒)」

(生徒)「うーん、やったかなあ・・・少しだけやったのかもしれない。」

(私)「じゃあ聞くけれど、時間切れで解いていない問題は自力で解いたわけではないのかな?じゃあ、今から時間を計って解いてみようか。」

 これは生徒が通ってる大手塾での模擬試験の見直しについてのことです。家庭教師の先生と一緒に見直したと親は思ってるけど本人は記憶にないのです。(この生徒は塾、自宅に直接来る家庭教師、オンライン指導☜私)のトリプルスクールです。

 で、で、で、時間を計っているにもかかわらず、 本人は画面の向こうでチンタラと朝ごはんを食べながら問題に向かっています。 こんなことに成績が伸びるわけありません。

 親は子供の成績を上げるために次から次へと指導者を増やしていきますが、これって「船頭多くして船山に登る(せんどうおおくしてふねやまにのぼる)」状態です。

 指導者が多すぎると受け身的な勉強の時間が長くなり、結局は自分で考えない、何も残っていないことになります。むろん、本人がさらなる向上のために指導者を増やすのなら大賛成です。

 しかし、純粋に❓子供の成績が悪いから指導者を増やそうと安易に考えるのはやめた方が賢明です。まずは本質は何か?をしっかりととらえましょう。

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