「五十にして天命を知る」
論語の有名な一節ですね。年代的にまさに今の私なのですが・・・自分の限界を知りなすべき使命を悟れているのか?と問われるとはなはだ微妙です。
ちなみに孔子は同時に
「五十にして以て易を学べば、以て大過無かるべし」
つまり「五十から易を学べ」とも説きました。
道を知ったはずの聖人が、なぜ今さら「易」を求めたのでしょうか。 天命が「進むべき航路」だとしたら、易は「潮目」を読む技術なのです。
どれほど正しい航路であっても、嵐の日に船を出すのは無謀です。
「今は進むべきか、それとも静かに力を蓄えるべきか」 易が教えるのは、自分の力では抗えない「時」といかにして向き合うかなのです。 天命という北極星を見つめつつ足元の波風を易で読み解く。
この二つが揃って初めて、私たちは「大きな過ち」を免れます。
国語において言葉の裏にある「行間」を読むように、 人生においても出来事の裏にある「変化の兆し」を読み取りたいなあと切実に感じます。
知命という覚悟を持ち、易という知恵を携えて残りの人生を歩みたいものです。
孔子の言葉を読みながら、私も思わず易の本を手に取りました。さて、これで「大過なし」になるでしょうか。