古文 雑感

人としての器

 「器」という言葉を聞くと、ついその「大きさ」ばかりに目が行きがちです。

しかし古典を紐解くと、器には「形」や「種類」があることに気づかされます。

例えば『平家物語』の「敦盛の最期」に登場する熊谷直実。 敵である少年・敦盛を斬るに忍びず、ついには出家までしてしまいます。 軍を統率する「大将の器」としては失格だったかもしれません。

しかし、他者の痛みに寄り添う「人間としての器」は、途方もなく大きかったと言えるでしょう。

また、ある臣下のエピソードも示唆に富んでいます。 主人の命に背き、母を慕う子鹿を逃がしたことで解雇された臣下。 一見、不忠に見える彼の「慈悲の器」を別の賢者は見抜きました。

「動物の親子の情を解する者なら、わが子の教育も任せられる」と。

この臣下を採用した人物こそ「上に立つ者の器」を持っていたと言えます。

表面的な損得ではなく本質的な徳を見抜く「目」という器です。

さて、私は最近、いろいろな方々と出会ったり、お誘いがあったりします。そんな際にその人の肩書や年齢等々ではなく人としての器を見抜くことを意識しています。

さらに言うならば自分の器に見合った無理のない生き方を選択したいなと思う今日この頃です。

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